9/1~2 徳島 神山町サテライトオフィス視察ツアー二日目の部 前篇


宿泊先は⇒[http://kamiyama-spa.com]神山温泉 ホテル四季の里&いやしの湯

こちらの宿泊施設は、日中は地元や近隣の方々多く利用しているみたいで駐車場がいっぱいでしたが…夜になると我々のレンタカーともう一台の二台だけになっていました。[

大体の車にシルバーマークが貼ってありました。
走ってる車の運転手は大体が高齢者でした。高齢化率45%だそうです。
しかし、元気な諸先輩方だなぁ〜と感心させられます。

温泉は、ぬるっとした感じで、泉質/含重曹食塩泉だそうです。私の感覚では鳴子の温泉蛇の湯みたいな感じでした。


駐車場の一角には、レンタル自転車がしかも電動自転車!!!

二日目の朝食山の幸を美味しくいただきました。

9時に案内していただける「神山アーティスト・イン・レジデンス実行委員会」 会長の杉本哲男さんが宿まで迎えに来てくれました。

杉本会長の案内でアートの実物を見学しました。
途中大雨の中の見学でしたが、自然の中で清々しい気持ちで見学できました。場所はかなりの山で勾配がきつい坂道を登っていく場所でした。

途中にこんなところに家が有るの?というような場所にロッジ風の建物が点々としていました。そんな中隠れ家的面白い図書館があるというのですが…誰でも利用できるわけではなくて条件があるそうで神山に住み定められた記念日に自分のお気に入りの本を寄贈することが条件だそうで今回は特別に中を見せていただきました。説明されなければただの小屋?倉庫?みたいな外観ですが…面白いシステムの図書館でした。特別なとか付加価値をつけることによって目的を持った方がピンポイントで利用できるシステム素晴らしいと思いました。

一通り案内していただき感じたことは、アートを通して人と自然を繋げる役割を果たしているのだと感じました。

9/1~2 徳島 神山町サテライトオフィス視察ツアー初日の部

出発9/1(日) 仙台 天候 晴れ

今回、南三陸木の家づくり互助会のメンバーでありラムズ代表でもある渡辺啓さんからのお誘いで神山町サテライトオフィス視察ツアーに参加させて頂きました。後藤一磨さん66歳 鈴江茂敏さん49歳 渡辺啓さん39歳 阿部俊幸さん26歳 と私の計5名。

まず、神山町って何処にあるの?どんな所?恥ずかしながら全く知りませんでした。噂では、なんか最先端の田舎があるんだってとしか具体的には知りませんでした。

最先端の田舎???何が最先端…調べてみると新たな働き方だということが分かりました。特に、中央部(大都市 東京)での仕事が地方でも出来るということでした。

仙台空港7時35分発伊丹空港行き。空港からバスを乗り継ぎ徳島駅まで途中神戸三宮で乗り換え…17年前の阪神淡路大震災の悲惨な光景の面影なく賑やかな街になっていました。大きな建物の下層階を残し上層階のみを撤去して現在も利用しているとお聞きしました。

バスの待合所には、売店がこの様なお店にもサテライトショップが入ったらよいなぁ〜と感じた。


13時徳島駅着、鈴江さんと合流&レンタカー移動開始

遅めの昼食、昼食は徳島ラーメン東大というお店写真のように心配りの効いたお店でした、取り皿には蓋がついていて、長い髪の方のためにヘアバンドも用意されてました。

レンタカー移動で本日の宿へ向かう写真参照 市街地から徐々に離れると自然が広がってきました。

車で約50分ほどの場所に今回の視察地神山町がありました。宿に到着後

グリーンバレーの理事長、大南信也さんとの会談約2時間以上も丁寧に説明していただけました。
流入人口の方法、起点を未来に置き今すべきことを考え行動する。とにかく、やってみる。

その後、実際に神山にやった来たメンバーとの交流会に参加、たまたま学生がイベントを考えたプレゼンを聞くことができました。プレゼンを聞いた後の交流会で学生たちに何故ここ神山で…?と問うと、以前は知らなかったが実際に来てみて意外と近い(徳島大学四国大学の多種多様な学生)また来たい、人柄親切な人間性に触れたと語っていた。
交流会では、約30名ほどの人が集まり皆さん年齢性別関係なく同じ目線で語り合っていました。約30名集まった方々の中で地元民が4人しか居ませんでした。何か目的を持ったメンバーが集まり型にとらわれない環境で伸び伸びと人生を過ごしているなぁ〜と感じた。
突然のサプライズ誕生パーティーになったり人と人との関わりを町に来た人々が大切にしているんだなと、お金の交換では、気持ちが乗ってこない気持ちの交換、気持ちよく動ける&働ける場所作りを自然にやっている。

初日の視察、移動がメイン???交流会も終わり宿え…。

交流会会場⇔宿の送迎を大南理事長自らが送迎してくださいました。ありがとうございました。

株式会社はてな in南三陸町

全ての始まりは、3月1日 午後7時前の一通のFacebookからのメッセージであった。

内容は、株式会社はてな の方からのメッセージで…南三陸で開発合宿中をしている、現地の方と談話したいとの内容でした。

私も、ビックリしましたが…流石 IT関係の会社、ネットの情報収集が早い、と同時に私の活動をみていただけた嬉しさが湧き上がりました。

被災地は、風化されてきていると私は感じ…当然の流れだが、ネット、「IT」のチカラで風化を防げないものかと思っていたところでした。

何事をするにも、情報が全てだと あの日以来真剣に考える様になり、情報発信と情報収集の大切さを感じました。

そこで、今までの活動も少しずつでは有りますが、日記に書く様にしたいと思います。三日坊主ですが…って前にも書いたような(^_^;)写真の方を見習って書こうと思います。

今後、様々な形で色々な方の協力を頂きながら復興、復活、再生、進化、となれるようにしていこうと思います。

久しぶりに、落ち着きましたので…。

師走の忙しい時期に突入ですね。

久しぶりに、書きます。っといっても…半年前に書いた内容を、知り合いの方がネットにアップしてくれたので、リンクします。以下…
http://fukushima50.jimdo.com/東日本大震災-続報集/南三陸から/

あと、別件で隣町の知人からの紹介で被災地、被災者のココロの声を絵ハガキに描いて展覧会を開いた後に、来年3/11に本人宅に送ってくれる企画。プロの絵描きさん…http://www.ne.jp/asahi/don/cajon/index.html

3/11後…その5

自慢じゃないが…私は、隣街の避難所へ通い、約2ヶ月でガソリン代が15万弱かかった。・°°・(>_<)・°°・。無職には、ツラい出費だ。
しかし、避難所の皆さんの辛さに比べたら…そんなの屁でもない。
時には、皆さんから「ご飯一緒に食べましょう。」とご馳走にまでなってしまった。

こうして、皆さんと接していると失ったモノは多いが、新たに得たモノの方がはるかに多く感じました。それは、本来忘れかけていたモノ。「人と人とのコミュニケーション」核家族化が進む中で、避難所という大きな「家族」が生まれたのだと感じました。
一つ屋根の下で、半年近い時間を共に過ごし、共に協力し励まし合い過ごした時間…今後も大切にして行って頂きたい。(^O^)/

登米市南三陸町外避難所を、一日平均3箇所は、訪問していました。
時には、物資…UNIQLOさんが東京からわざわざ来てくれて、登米市の11箇所と南三陸町内数カ所を二手に分かれて配ってくれました。ここでも、「ITで日本を元気に!」の東京のメンバーの方が、大手企業さんに頭を下げて支援の提供を繋げてくれました。

時には、美容師さん…避難所4箇所を二日間で廻り、朝10時頃から夜11時過ぎ位まで頑張って髪を切ってくれました。

学生時代の先輩、美容師さんになられて、震災後何度も何度も連絡くれていたそうですが、なかなか繋がらなかったと言ってました。

好評だったので、美容師の先輩も仲間を連れてまた来るよ。っと言って…
2ヶ月後、また来てくれました。

この時は、南三陸町内で行いました。

この様に、色々な方々にお世話になって、ご協力を頂き感謝の気持ちでいっぱいです。

3/11後…その4

私は、約3週間本部があった…ベイサイドアリーナの物資搬入&搬出を時間のある限り手伝いに行きました。そうして、物資の流れや必要な物が必要な場所に行き渡っているか…見ていましたが・・・。・°°・(>_<)・°°・。
実際には、人手不足効率の悪さ、把握力の無さにガッカリしかし、今出来る事を微力ながら手伝っていたつもりでした。日をますごとに周りでの必要な物が届かない、膨大な数の物資…これでは、適材適所に行き渡らないと思い、個人での町内配達や生の声を聞いて廻りました。
町内を廻っていて数日後、姉が免許証の更新で手続きにいった時の話を耳にした。町外に避難した方が後ろに並んでいて聞こえて来た会話…「同じ南三陸町民なのに、町外に避難した私たちには、全然町の中の情報が入らない」って?
私も、その話を聞いてビックリしました。本当なのか?このままでは、町外に避難した方が、心まで離れてしまうのではないか?そうしてこの町に戻って来なくなったら、南三陸町は、町として成り立たない町民は、皆さん1人1人は、町の財産なのに町は気付いているのだろうか?そもそも本当に情報が入らないのか?確認しに隣街の避難所を11箇所を廻って確認したところ…皆さん口を揃えて、「私達は、見捨てられたんだ」といっていました、コレではマズイ。・°°・(>_<)・°°・。

ゴールデンウィーク明けの5/8母の日の出来事でした。わが家に、震災後初めて電気がついたのです。

その時、私は母の日作戦というTwitterで地元の方応援願う…的な情報が有り、
お手伝いをしようと思い参加させて頂きました。
その日を切っ掛けに、【ITで日本を元気に!】の発起人の方と出会い…情報の重要性を学びながら、共に支援を手伝ってくれています。

隣街の(登米市)11の南三陸町外避難所…東和国際交流センター、旧鱒淵小学校、源氏ホタル、旧嵯峨立小学校、登米公民館&武道館、津山若者体育館、豊里多目的研修センター、旧善王寺小学校、平筒沼YOUYOU館、長沼フートピア!
を一ヶ月半グルグルと廻っていました。情報の共有、何か手段は…。

3/11後…その3

3/11の翌日お昼前に、何とか南三陸町に着いたが…目に入る光景が。・°°・(>_<)・°°・。

やっとの思いで、志津川高校避難所へ辿り着いた。夜通し歩き続けた疲れが出て、高校避難所で、仮眠を約2時間…*1..zzzZZ

その後、安否のわからない家族の元へ急いだヽ( ̄д ̄;)ノ=3=3=3

志津川高校の下の位置から向かいの中学校を写した写真です。

歩くにも、足が棒の様に…足の裏には、大きなマメ(内出血)が。・°°・(>_<)・°°・。普通には、歩けない状態でしたが…一刻も早く家族の顔が見たいと足を進めました。
通れる道の情報も、遠回りの情報ばかりでしたが、山道よりも近道を、トンネルなら大丈夫だろう、瓦礫の中を乗り越え、線路〜トンネルへと進みました。

志津川中学校の自転車置き場付近

このトンネルを抜けて、なんとか二つ目のトンネルも抜けて、国道の瓦礫の少なくなった道へと出ました。その後、本部となっていたベイサイドアリーナ方面に向かい、途中知り合いの方に合い、クルマで自宅まで送っていただきました。

トンネルの途中


車内では、交わす言葉が見つからず…私は、変わり果てた町を見て来て涙が止まりませんでした。
家では、家族が何事が起きたかわからない様子で、私を迎えてくれました。

私は、足が痛くて痛くて、少し動かすだけで…攣ってしまう状況でした、翌日から行政区の連絡役として、携帯も電話も通信手段の無い状況で、朝早くから本部のアリーナまで自転車や徒歩で、色々な情報を集めに行き、交通、緊急時の病人の対応や、クスリ、物資、安否情報、等を行政区の皆さんに伝えていました。


数日後から、物資の支援が全世界から届きました。
写真は、3/18の…アメリカ軍や中国からの水や食料の運んで来た時の様子です。

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