3/11後…その3

3/11の翌日お昼前に、何とか南三陸町に着いたが…目に入る光景が。・°°・(>_<)・°°・。

やっとの思いで、志津川高校避難所へ辿り着いた。夜通し歩き続けた疲れが出て、高校避難所で、仮眠を約2時間…*1..zzzZZ

その後、安否のわからない家族の元へ急いだヽ( ̄д ̄;)ノ=3=3=3

志津川高校の下の位置から向かいの中学校を写した写真です。

歩くにも、足が棒の様に…足の裏には、大きなマメ(内出血)が。・°°・(>_<)・°°・。普通には、歩けない状態でしたが…一刻も早く家族の顔が見たいと足を進めました。
通れる道の情報も、遠回りの情報ばかりでしたが、山道よりも近道を、トンネルなら大丈夫だろう、瓦礫の中を乗り越え、線路〜トンネルへと進みました。

志津川中学校の自転車置き場付近

このトンネルを抜けて、なんとか二つ目のトンネルも抜けて、国道の瓦礫の少なくなった道へと出ました。その後、本部となっていたベイサイドアリーナ方面に向かい、途中知り合いの方に合い、クルマで自宅まで送っていただきました。

トンネルの途中


車内では、交わす言葉が見つからず…私は、変わり果てた町を見て来て涙が止まりませんでした。
家では、家族が何事が起きたかわからない様子で、私を迎えてくれました。

私は、足が痛くて痛くて、少し動かすだけで…攣ってしまう状況でした、翌日から行政区の連絡役として、携帯も電話も通信手段の無い状況で、朝早くから本部のアリーナまで自転車や徒歩で、色々な情報を集めに行き、交通、緊急時の病人の対応や、クスリ、物資、安否情報、等を行政区の皆さんに伝えていました。


数日後から、物資の支援が全世界から届きました。
写真は、3/18の…アメリカ軍や中国からの水や食料の運んで来た時の様子です。

*1: _ _